• [0]
  • 10号の合評

  • 投稿者:管理人
  • 投稿日:2016年10月21日(金)11時50分2秒
 
実際の合評会に代わり、各作品についての感想を書いてね。
創作に対する態度を彼我ともに見つめ直すため、相手に無用な気など使わず、しかし、真摯にお願いします。

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  • [14]
  • 小原さん、佐藤さん、山根さん、待ってますよー。

  • 投稿者:安堂
  • 投稿日:2016年11月 5日(土)07時35分39秒
  • 返信
 
下記の先生は「文化勲章」授章者でしょうか。
勲章には何の価値もないという人もいるけれど、地域社会の文化を守り、ひいては日本の文化を護り、新たな伝承に導いた、そんな方こそ文化勲章が似つかわしいですね。

  • [13]
  • 神々とのえにし 後日譚

  • 投稿者:小田原漂情
  • 投稿日:2016年11月 5日(土)00時36分37秒
  • 返信
 
 安堂さん、作品批評で「失礼」などということは、中傷でない限り、ありえませんよ。真にありがとうございました。

 ところで、ここに書いていいものかどうか、少し悩みましたが、拙作『産土の神はいづこに』の第一章章題とした「神々とのえにし」について、事後報告をさせていただきます。

 霜月に入り、「喪中」の知らせが、みなさまのお手元にも、届きはじめる頃かと思います。今日、そのはじめの一枚が拙宅にも届きましたが、それは、奥三河の花祭りをずっと継承されて来た、愛知県北設楽郡東栄町古戸(ふっと)のI先生が(「産土・・・」文中のI先生とは別の方)、今年三月に逝去されたという、奥様からのお便りでした。

 このI先生こそが、旧『頌』第四号の拙作「花祭り」の中で私に花祭りの真髄を教えて下さり、振草系の花祭りの源流を受け継がれ、さらに後年東栄町の「花祭会館」の館長を務められて、今日に至る花祭りを、身をもって伝えてきて下さった方だったのです。拙著『小説 呼子谷/花祭りと三河紀行』に、序文を書いて下さった方でもありました。

 お亡くなりになったのは、三月のはじめのことだったようです。そして私が、「産土の神はいづこに」の旅をしたのは、三月八日から九日にかけてのことでした。単純な暦の計算なら、初七日の間に、I先生のいらっしゃる奥三河(最寄り駅は東栄駅)を、I先生が「朝鬼」または「茂吉」と呼ばれる花祭りの総決算の舞いを舞われた十五年後、私は「神々とのえにし」を思いながらたずねたということになります。

 むろん偶然と言えば偶然。しかし私の旅の系譜としては、必然と言うべきものがあるのではないでしょうか。

  • [12]
  • 失礼な書きぶり、申し訳ありませんでした。

  • 投稿者:安堂
  • 投稿日:2016年11月 4日(金)13時34分27秒
  • 編集済
  • 返信
 
私事ですが、連れて行っていただいた信濃学寮の記憶が強烈で、卒業後も小田原さんの在り方に傾倒し、まず真似ることからと、ボーナスごとに寝台特急で旅行に出ました。
何市か覚えていませんが、出雲に行ったとき、初めから「出雲そば」を食べることが目的の一つでしたので、この時だけは「るるぶ」を参考に。
本に掲載の蕎麦屋は長蛇の列。食べるのに列に並ぶのは、終戦直後でもあるまいし、嫌なので、一丁向かいの本に掲載のない、列を作っていない店に入りました。
掲載のない店だからか、はたまた「出雲蕎麦」全般に言えることなのか、蕎麦自体は美味しいものの、つゆが中途半端に甘ったるい。出雲地方の方や出雲蕎麦好きな方にはゴメンナサイ。
あそこで並ぶべきだったのか、今でもたまに思い返します。

紀行エッセイをお書きになる機会があったら、是非。楽しみにしています。

別件で、食品会社勤務の時、いくつかの出入り先が、街を紹介する雑誌に掲載されました。さぞや喜んでいるかと思うと、実は迷惑みたいでした。
・潤うのは雑誌発売の期間のみ。
・一時的に客が増えることで、居心地が悪くなったと感じた常連客が離れていく。
・日々の客足が読めないので、仕入れが効率的に出来ない。
等々。
良いことずくめかと思っていると、そうではないことにビックリしました!

  • [11]
  • 「『るるぶ』的なもの」への反撥と角逐

  • 投稿者:小田原漂情
  • 投稿日:2016年11月 3日(木)23時38分53秒
  • 返信
 
 安堂さん、ありがとうございました。バックナンバーに遡ることをお許しいただけるなら、旧(紙の本の)『頌』第4号(「花祭り」)、5号(「丹後はるかに」)からの、また「紀行エッセイ」そのもので言えば、第2号からの終着点を描く思いがあり、力瘤に力を溜めすぎたかも知れません。ご指摘ありがたく受けとめます。

また、ご指摘をいただいてすぐのおとといの夜(11月1日深更から翌朝)、夢の中で、完全なフィクションの痛快さに快哉を叫び、目が覚めました(笑)

 その意味では、次回はやはり、小説でしょうか(紀行エッセイは、文章は創作だが背後には実際がある、という程度の意味です)。

 一つ、飯田駅のくだりについて言い訳をさせていただきます。いい齢をしてこだわることもないか、とも思うのですが、「『るるぶ』的なもの」への反撥と角逐とが、私の旅の思いの根底にあります。『るるぶ』とはみなさんご存じと思いますが、「見る、食べる、遊ぶ」を約したとされるトラベル系雑誌で、たぶん1980年代の半ばから、開拓した領域も広いと認めているのですが、それらの雑誌、旅行系ジャーナリズムの「ある面」が「荒らした」ものもまた非常に大きく、そのことに対して、私には一つの立場があるのです。すなわち、私においては、「○○駅で下りたら必ずどこどこへ行こう!」というような風潮への反発、反措定が、若いときから強くあって、紀行や旅の文章を書く場合には、避けて通れないものでありました。

 とはいえ、本当にそろそろいい齢をしてどうかな?と思わないわけでもなかったのですが、本作が、これまでの紀行エッセイのひと区切りになろうという感触が、書きながらわき上がって来たため、そのまま書いてしまいました。次にこのような文章を書くのも、いつのことかわかりませんし、こうした「何らかのものとの角逐」も、卒業する時なのかも知れませんね。もっとも、次の機会にはまた別のものと(たとえば今回は肯定しているICTと、あるいは未だ見たこともない何ものかと)、取っ組み合っているかも知れませんが。

 何はともあれ、多数の紙幅を今回も頂戴しまして、ありがとうございました。私からの作品批評も引き続き書かせていただきますし、拙作につきましても、忌憚のないご批評をいただければ幸いです。


  • [10]
  • Re:拙作について、おたずね致します

  • 投稿者:安堂
  • 投稿日:2016年11月 1日(火)18時53分21秒
  • 編集済
  • 返信
 
んーっ、難しい質問です。ただひたすら個人の見解を。

2については、そんな必要はないと考えます。説明文を増やすのは、よほど注意しないと、作品の焦点を維持するのが困難ですし。
現作に興味を持った読者ならば、かつ、バックナンバーにある作品ならば、紐解くでしょうし。

3について。鉄道に関する用語など、これを楽しみにしている読者もいるだろうし、今のままで差し支えないと考えます。

問題があるするのならば、1かと。
「エンターメント性」の捉え方にもよりますが、読者サービス的な部分を増やすのではなく逆に、もっと削るべきかと考えます。
読み進めていて、ほっと一息付けることのできる箇所があまりない。鉄鉱泉館の食事シーンや、アイヌ人技師の挿話などを除き、読者は緊張し続けの様です。
書きたいことを、もっともっと削ぎ落としていけば、作品全体に余裕が生まれ、読者の緊張も違ったものになるのではないか。たとえば、飯田の駅前で昼食をとろうと目論んだ話など、挿話としては面白い話ですが、作品全体にとり必要な部分かというと疑問に思います。
また、題名と冒頭の内容から、民俗学っぽい紀行文なのかなと思った読者もいるはずですが、読み進めていくと、民俗学っぽさは無し。

小田原さんほどの力量があれば、「エンターメント性」を増やす必要はなく、むしろ、テーマを更に絞り、突っ込んだなお一層の整理が、「エンターメント性」に直結するのではないかと考える次第です。

傍若無人な意見、平に平にご容赦を。

  • [9]
  • 拙作について、おたずね致します。

  • 投稿者:小田原漂情
  • 投稿日:2016年11月 1日(火)13時04分36秒
  • 返信
 
安堂さん、批評の口火を切って、全作の批評を書いて下さり、ありがとうございました。その中の拙作「産土の神はいづこに」に関して、必要な「何かの工夫」ということを考えてみましたが、以下の3つの切り口に大別すると、どれが一番近いでしょうか。後学のために、ご意見をいただけるとありがたいです。よろしくお願いします。

1. 新しい読者を獲得するためのエンターテインメント性

2. 前作「みすずかる信濃ぞとほき」を含め、過去の自作を「承前」として書いていることのわかりにくさ。もっと初読の読者にわかりやすくするべきか。

3. 鉄道用語、車両形式の頻出や歴史に関する記述を、もっと噛み砕くべきなのか。

自分なりに分析すると、大体この三分類で、かつ、考えながら書いたものではあるのですが、率直にご指摘いただけるとありがたいです。

  • [8]
  • Re:読者はいかに読むべきか、そして作者の「訴え」は?

  • 投稿者:安堂
  • 投稿日:2016年10月31日(月)18時32分30秒
  • 編集済
  • 返信
 
「私性」と「普遍」。上手いことをおっしゃる。
書いていて、そこまでの意識はありませんでした。むしろこのスレッドの最初の書き込み(10/21分)で、「「小学生に教えるな」という段はテーマの一つでもありますが、詩にも何にもなっていない」
と独白しています。
つまり、今までの詩における執筆態度は、「私性」での考えのみ、言葉を換えれば、自己に卑近にかかわる事柄にのみ着目したものであり、そんなパーツだけで、詩を構成させようとしていました。
「普遍」化に関わる事柄の叙述は、僕の詩ではないと過去にも余り取り上げて来なかったかと。「普遍」化すべき事柄は、詩の題材として無意識に、捨て去っていました。
したがって、「私性」以外の事項は書き方が身に付いていず、浮いたものとなり、最終行の混乱となっています。(ナンバー4の独白)。
今後も「私性」を中心に書いていくことでしょうが、それオンリーでは表現の行き詰まりを感じていたのも事実。
「私性」と「普遍」を対立する構図ではなく、両者を互いに食い込ませるような詩作が可能かどうか、考えるヒントになりました。有難うございます。
ところて、障害者の立場から言って、パラリンピックは無用の物だと思っています。

  • [7]
  • 読者はいかに読むべきか、そして作者の「訴え」は?

  • 投稿者:小田原漂情
  • 投稿日:2016年10月31日(月)00時05分33秒
  • 返信
 
 この『Web頌』は、それぞれ専門領域の異なる作者が思い思いの(ただし全力の)作品を出稿しており、必ずしも共通の批評用語が、存在しうるわけではない。そのため、批評本稿の投稿に先立って、「私性(わたくしせい)」についての小文を、投じさせていただいた次第である。向後この場にあっては、「用語」に関して、同文を基本とさせていただくので、本稿をお読み下さる方、またこの場で論じ合う方々には、そこからのスタートであることを前提としていただければ幸いである。

 さて、批評の第1回は、安堂俊雄氏の「祭典」からはじめさせていただきたい。はじめに述べた通り、詩歌作品においては、読者がどこまで、作者の「私性(わたくしせい)」を受けとめ、かつ作者の側の配慮としては、読者がどのように読んでくれるのかということが、作品批評の際に焦点を当てるべき大きなポイントとなろう。

 その点で、安堂氏の「祭典」においては、作中の第三連までと、第四連での大きな展開の場面において、「私性」をどのようにとらえるかが、問題点となるように思う。すなわち、三連までは、競技者と同じ病であるらしい作者が客観的に、病についての自覚的共感とも言うべき述懐をし、読者をひきこんでいく力量を見せているのだが、四連で、昨今よく見るところの、いわゆる「障害のある人たちのスポーツ」に対する「訴え」に転じることで、表現者が「私性」の問題をどのように表出するべきか、その問題が明らかになって行くと思われる。

 また、修辞上または技術的な問題で言うと、最終行の「鏡に写った自己に戸惑った時、その背景が見えさえすれば」が、倒置的にそれまでの願いを受けているものでなく、焦点の見えにくい一行となっている点を、惜しく思う。すっきり「倒置」になっていないのは、先行批評者の指摘する、「育みませぬ」の「育む」(他動詞であること)にも一因があるだろう。また、「倒置」ではなく、「見えさえすれば」のあとに、何かが「省略」してあり、そこを読者に考えさせようという企てかも知れぬ、とは読めるものの、残念ながらその意では、あまり成功していないと考えられる。

 三連までの、切りこんだ「私性」の表出と、四連での一般化、普遍化の行程に、課題を残した作品であると言えよう。



  • [6]
  • 石井さんから文法についてのご意見もあったし。

  • 投稿者:安堂
  • 投稿日:2016年10月30日(日)21時25分48秒
  • 編集済
  • 返信
 
心から思い立った日が吉日か思い、文法の本を電子書籍で買いました。有意義な内容なら高くはなく、睡眠を誘うような物なら高し。648円。「日本人のための日本語文法入門(講談社)原沢伊都夫著」
これから読み進めますが、楽しみ。

  • [5]
  • Re: 石井さん、有難うございます。

  • 投稿者:石井綾乃
  • 投稿日:2016年10月30日(日)19時21分13秒
  • 編集済
  • 返信
 
「育まれませぬ」「育ちませぬ」なら問題ないかと。「~を育む」は「愛を育む」などの用例が分かりやすいかと思います。安堂さんの詩の最後の一行、もう少しよく味わってみます。

  • [4]
  • 石井さん、有難うございます。

  • 投稿者:安堂
  • 投稿日:2016年10月30日(日)17時34分42秒
  • 返信
 
僕の最後の一行は、その文句や置き方に、悩みました。我ながら今読み返しても、「ンッ?」と思います。
大きな「落ち」のある詩が好きなんですが、これは作っていて「落ち」が出てきませんでした。それでは何か落ち着かないので、取って付けた「落ち」。その為、結果的に、詩全編の中にとけ込んではいず、浮いてしまった一行ですね。
自動詞、他動詞? 意識したことはありませんでした。言葉に対する感性を磨く為にも中学生向けくらいの参考書を読んでみたいと思いました。
ありがとうございました。

  • [3]
  • 詩作品だけで、とりあえず。

  • 投稿者:石井綾乃
  • 投稿日:2016年10月30日(日)14時42分26秒
  • 返信
 
合評、参加します。とりあえず詩作品だけに絞って。

「抽象的な現在」佐藤 裕
後半の畳みかけるような迫力に対して、前半の、とくに「吉本隆明を 四十年ぶりに読み返している」のところ、散文的に流れているのが惜しい。もしかしたら、折り込み済みの仕掛けなのかもしれないが。

「月の夜」轟俊 訳
翻訳詩の醍醐味は、翻訳者が言葉を斡旋して、原作の魅力をいかに自分の言葉と摺合せ、表現するかにあると思う。轟さんの今回の作品は、ある程度成功していると思う。言葉選びに独特の感性が感じられる。

「祭典」安堂 俊雄
ちょっと苦しくなうような作品。自己投影して読んでしまった。一点、「育みませぬ」が気になった。「育む」は他動詞では?最後の一行が腑に落ちず。でも、これは現代詩を読み慣れていない、私の「読むちからのなさ」だと思う。安堂さんらしい、と言えば言える作品。


  • [2]
  • 序論に代えて

  • 投稿者:小田原漂情
  • 投稿日:2016年10月25日(火)00時54分33秒
  • 返信
 
 代えて、と言っても、このあと「本論」を書くという意図のものではありません。この合評の場で、私が諸氏の作品の批評をさせていただき、さらにこもごものやりとりが生じるかも知れないということを思う上で、私自身の用語の前提を表明しておきたいという主旨のものです。

 序論:「私性(わたくしせい)」の問題

 合評をはじめる前段階として、今後用いるであろう「私性(わたくしせい)」という言葉について、念のため最初に述べさせていただきます。かつて短歌において、作品のあらわす内容と、作者自身=「わたくし」がどのように位置づけられ、どこまで一作者たる「わたくし」が、許容され作品を生かしうるのか、そうした観点から用いられた言葉です。

 このことは、また短歌以外のジャンルにおいても、「われ」の出し方と、同義もしくは隣り合わせ、背中合わせのものと言えるでしょう。すなわち、どのジャンルの作品であれ、執筆者たる「われ」がどこまで己の姿を見せ、もって作品をどのように読者に差し出すのか、そのことを大きく問うものであります。さらには「普遍性」との関係も、大きなものがあります。

 日本の近代詩の巨人である高村光太郎には、おそらく今なお「誰もが一度は読んだことがある」と言ってもおかしくないと思われる「レモン哀歌」と、『智恵子抄』の一群があります。実在した智恵子夫人もそうですし、また「元素智恵子」に代表される、死後も長く光太郎とともに存在し詩中にもあらわれた、「光太郎の存在における智恵子」のいずれもが、高村光太郎という希有な詩人における「私性」の極致と言ってもいいと思うのですが、一方で高村光太郎と『智恵子抄』が、なぜ今なお近代詩の最高峰に位置づけられるのか。

 むろん、そこには光太郎没後に、「智恵子」と「智恵子抄」がドラマ化され(テレビドラマの意でなく/また室生犀星は、佐藤春夫の『小説智恵子抄』以外のそれらのものを、全否定しています)、「大衆化」されたことの功罪もあるでしょう(念のため、「知名度」の点において「功」なしとは言い切れぬが、「罪」の方が大きかっただろうというのが私の立場です)。

 しかし、光太郎が妻智恵子を、さまざまな意味でうたった『智恵子抄』の作品が、こんにちなお光を放ち、その時代の最高峰の作品として力を持っているのは、「私性」以上に強靭な「普遍性」を、作品が持ち得ているからではないでしょうか。「合評」の場で個々の作品批評をさせていただくに先立って、私の立脚点を明確にする意味から、記させていただきます。いろいろな物言い、やりとりが今後生じるだろうとは思いますが、『Web頌』の活性化と文学のあるべき姿への発言であることの前提として、この一文を最初に投じる次第です。


  • [1]
  • 10号の合評を!

  • 投稿者:安堂
  • 投稿日:2016年10月21日(金)13時31分10秒
  • 編集済
  • 返信
 
こういう形式ではなく、各作品ごとのスレッドを作ろうと思いましたが、ごちゃごちゃしすぎ、書き込みにくいかと、結局、従来型に。

書き込みは全作品についてでも良いし、任意の作品だけでも結構です。

まず、ぼくから。

「波滾つ海」について
  相変わらず良い十首です。しかし、季語との兼ね合いとかもあり、僕には判断しかねますけれども、「波がタギル海」という時、「波」と「海」が同種の語ですから、すっきりしないなあ、とは思いました。

「淡行線に乗ってみた」について
  良いストーリーです。「銀河鉄道の夜」や手塚治虫「火の鳥」を彷彿とさせます(僕には)。ただ、突然に同音の助詞の並列があったり、その並列は効果を狙ったものでもないらしく、あと一つ突っ込んだ推敲が欲しいと思いました。

「津久井やまゆり園の殺人事件に思う」
  鋭い論調。作中の新聞記事紹介でその日付を併記されてなかったのが、形式に着目した場合、悔やまれる。

「産土の神はいづこに」
  面白かった。ただ、この作者の中身の濃さを知っているので、僕は問題なく、読み進められるが、、一般の読者、この作者の物を初見の読者に読書欲を起こさせ、読み進めさせるには、もう少し何かの工夫が必要かと。(具体的には判らないが)

「口をあく人」
  口をあく、という括りは、美術オンチの僕でも興味を持ち、見事な導入部かと。そのリズムが少しも崩れないのは流石。

「抽象的な現在」
  いつにも増し、自己を客観視(しようと努力している)し、若いころとの比較で、詩に立体感が出ている。難を言えば、吉本隆明のくだりは、自己を振り返るという詩の流れを寸断しているように見える。しかし、吉本の挿入はこの詩の構成に欠かせない部分でもあり、挿入の仕方が難しい所。

「月の夜」
  原詩は知りませんが、「月の夜」は天晴。しかし短い詩に「天空」という語が重複するのは疑問。注釈欄は無駄に長すぎる。エッセイではないのだから、詩の焦点が惚けてしまう。

「祭典」 作者談。
   パラリンピックには、かねて疑問に思ってました。語の重複での効果を狙ったものの、どっちつかずになり失敗したか。「小学生に教えるな」という段はテーマの一つでもありますが、詩にも何にもなっていない。

「版画ノート」
   各号の版画は、画伯と事前打ち合わせはしていません。しかし、ふたを開けると打ち合わせたかのような版画たち。不思議です。


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  1. 10号の合評(14)
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