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日本書紀

 投稿者:太田 守人  投稿日:2017年 5月24日(水)07時10分33秒
編集済
  日本書紀の壬申の乱によると,不破の関の戦いは,近江王朝にしたら,奇襲だったようです。近江王朝の大臣に,紀大人と言う人物がいますが,この人物が,近江王朝の情報をダダ漏れに,大海人側に伝えます。それで,近江王朝は,精鋭部隊を奈良方面に派遣します。箸墓の戦いで,大伴吹負が苦戦したのは,これが原因のようです。
ところが,大海人軍が,予想外の不破の関方面に現れた。近江王朝は,全軍を奈良方面に向けていたようで,日本書紀によると,大津京を作るために動員した,労役の百姓に武器を持たせて,即席の兵士にして,不破の関方面に派遣したようです。日本書紀には,詳しく書いてありませんけど,紀大人の情報で,大海人皇子は,不破の関方面の敵は烏合の衆で,戦意がないと言う事が分かっていたので,高市皇子を総指揮官にしたのだと思います。蘇我果安ですけど,大海人皇子と打ち合わせ済みで,山部王を斬殺したと言う説もあります。実際,大海人皇子が,天武天皇になったら,蘇我果安の子供や親類は,重用されたようです。1回目の関ケ原である,不破の関の戦いは,日本書紀は,触りたくないと言うような書き方で,詳しく書いていないので,想像する以外ないのですけど,大海人皇子が,桑名に留まったのも,不破の関の敵軍は大したことがない。と分かっていたからだと思います。関ケ原は,孫子の兵法で言う,クチ(変換できません)だと思います。交通の要衝と言う意味ですけど。ただ,1回目は,近江王朝軍が事前に空中分解しましたので,天下分け目の戦いですけど,大海人皇子軍は,最初から追撃戦のみと言う戦いでした。その意味では,1回目の関ケ原は,3日の関ケ原では,大変変わった戦いであったようです。
ただ,不破の関以降ですけど,戦いの指揮権を取ったのは,初陣の高市皇子で,大海人皇子は,前面に出てきていません。多分,不破の関で,息子が予想以上に上手くやったので,任せたのでしょうけど,当時,高市皇子は,15歳くらいですけど,日本書紀を読むと,中2病のようなことが全くないのです。反対意見にも耳を傾ける。ですので,最後は歴戦の将軍連中が,15歳の高市皇子に心酔したようです。15歳と言ったら,第2反抗期でしょうけどね。(笑)天武天皇ですが,子供で一番信頼したのが,高市皇子と大津皇子のようです。皇太子の草壁皇子は,天武天皇は,どうも皇太子にしたくなかったようですけど,草壁皇子ですけど,皇后の持統の子供ですから,持統がごり押しして,皇太子にしたようです。古代天皇は,皇太子になる時,母親の力が大きかったようです。ですので,大津皇子のように,皇太子になる時,実母が死んでいた場合,優秀でも皇太子になれなかったようです。草壁皇子は,大変病弱でそのためもあると思いますけど,結構,屈折した性格だったようです。要は,すぐひがむわけで。(笑)
 
 

元興寺

 投稿者:太田 守人  投稿日:2017年 5月23日(火)22時46分28秒
  楢の修学旅行の定番元興寺ですが,この寺,蘇我馬子が明日香に作った,本興寺(今の飛鳥寺)の暖簾分けの寺です。平城宮が出来た時,聖武天皇が本興寺に移転してよ。と言ったので,奈良に移って造った寺が,元興寺です。ところが,本家の本興寺は明日香に残り,今の飛鳥寺になりました。飛鳥寺ですけど,大化の改新の時,今の10倍くらいの寺域があり,今入鹿の首塚あたりで,入鹿が殺されたそうです。入鹿の首塚は,後年(鎌倉時代?),土地の人たちが作ったものですけど。
それと東大寺の末社が春日神宮でした。それを,明治政府が,廃仏毀釈で,東大寺と春日神社に,強引に分けました。明治政府は,日本の古来文化破壊政府ですけど,ウヨの馬鹿どもは何でありがたがるのか?と小一時間。
 

照井高之さん

 投稿者:太田 守人  投稿日:2017年 5月23日(火)22時32分3秒
  毛利が本陣を置いた南宮山ですけど,この名前,南宮大社が麓にあるので南宮山ですが,南宮山の名前が付いたのは,江戸時代中期頃とも言われています。ですので,狸さんが「南宮山の毛利はどうじゃ?」なんて言う筈がないとも言われています。(笑)南宮山の前に名前があったか,無かったかさえも分からないそうです。南宮大社ですけど,ここ天武天皇を祭ってあるそうです。
まあ,日本の合戦を決めたのは,日本陸軍の戦史部ですから,本当かどうかわかったものではありません。(笑)
 

関ヶ原

 投稿者:照井高之  投稿日:2017年 5月23日(火)22時16分28秒
  というのは旧暦の日付を現在に換算した話かな。
あ、北畠顕家のところでも関ヶ原書いていましたね。

大きな合戦が同じ場所に集中するのは交通の要衝というのが挙げられますね、
例えば一の谷の戦いと湊川の戦い、青野原の戦いと関ヶ原の戦いなどありますし、
天王山で有名な洞が峠は南北朝時代の第二次八幡合戦で楠木が陣取った荒坂山。
平泉の第一次防衛ライン厚樫山はイタチが対徳川戦線で想定した場所と重なります。

関ヶ原合戦の時に小早川秀秋が陣取った松尾山も戦略上重要とされていて、
あれはもとから要塞化されていた山だったことが研究にありましたが、
もちろん小早川が一日で要塞化できるはずがなく、
中世からずっと山城として使用されていたようです。

http://ameblo.jp/lucky-penguins904/

 

高市皇子

 投稿者:太田 守人  投稿日:2017年 5月23日(火)20時13分29秒
編集済
  高市皇子ですけど,天武天皇の長男です。ただ,母親の尼子娘は,采女でした。采女は,地方の豪族の娘ですけど,天皇や皇族の性の奴隷で,子供はどれだけ優秀でも天皇になれませんでした。高市皇子ですけど,生まれた年は分かりませんし,どこで生まれたかもわかりませんが,奈良の高市郡だろうと言われています。
高市皇子の長男が,長屋王ですけど,この人物,大変温厚な人物で,壬申の乱で大海人軍の大将軍のような立場で戦い,大海人皇子が天皇になれたのは,高市皇子のお陰だと言われていますが,高市皇子は,全くそのことを鼻にかけませんでした。それで,持統天皇の時,最高位の太政大臣になりますが,人徳があるので,持統も藤原不比等も手が出せなかった人物です。高市皇子に,手を出すと,持統天皇がひっくり返るからです。長屋王の政治的影響力が強く,不比等に狙われたのは,親の七光りで長屋王が,目の上のたん瘤になったためです。高市皇子は,元勲ですけど,それを鼻に掛けないので,調整役として最適でした。高市皇子が,日本最初の太政大臣になったのは,草壁皇子と大津皇子が死んだので,つなぎの天皇として,高市皇子を天皇にしようと言う動きがあったからです。でも,母が采女と言う卑母だったので,皇太子に出来ない。それで,太政大臣と言う位を創設したと言われています。太政大臣は,準皇太子と言う意味のようです。696年に薨去しますが,高松塚古墳かキトラ古墳のどちらかが,高市皇子の墓と言われています。
長屋王は,性格的には,父高市皇子と正反対で,おぼっちゃまだったようです。
高市皇子ですけど,天智天皇の人質にされます。大海人皇子が,吉野に隠棲するときに,交換条件として,額田王を妃に差し出すということと高市皇子を人質にすることが条件だったようです。それで,大海人皇子挙兵直前に,高市皇子は伊賀で大海人皇子と合流します。日本書紀には,額田王は全く記述がありませんが,万葉集には,天智天皇と大海人皇子の喧嘩の原因が,額田王の取り合いと言うようなことが書いてあります。ここで,壬申の乱の原因が,額田王の取り合いと言われていますが,高市皇子脱出に際して,額田王が影に日向に,脱出の手伝いをしたようです。この時,高市皇子は15歳くらいだったと言われています。高市皇子は,天武天皇の長女の十市皇女に恋心を抱いていたようです。これも万葉集で分かるのですけど。額田王と鏡王と言う女性がいます。2人とも,よく分からない女性です。日本書紀に書いてないからですが,この2名は姉妹で,姉が鏡王,妹が額田王と言われていますが,王は,男女問わず,この時代,天皇の直系の孫を言いました。それで,この2人ですけど,推古天皇の孫娘説が強いのです。それで,天智は推古王朝を乗っ取るために,鏡王と額田王姉妹を,何が何でも,奪い取らねば,天智天皇は正統な天皇とみなされないと言う説が強いようです。実際,天智系統は,天武から孝謙天皇の時代に,一時消滅しかけます。聖武天皇の皇后が藤原不比等の娘の光明皇后ですけど,光明皇后は,文献を読むと,藤原政権の確立を一番妨害した人物の様なのです。ですので,孝謙天皇も,藤原大嫌いの天皇でした。道鏡事件ですけど,これ孝謙天皇の力を削ぐために,藤原が国家転覆事件にしたように思います。もし,道鏡が本当に,国家転覆を画策したら,下野の国の国分寺のトップに左遷なんて,あり得ないと思います。道鏡に関しては,物部守屋の直系の子孫説もあります。道鏡事件は,天智系から皇統を天武系にしようとした,天皇家のお家騒動だったと思います。天智系と天武系の冷戦は,桓武天皇まで続いて,天智系の勝ちになります。
 

不破の関の戦い

 投稿者:太田 守人  投稿日:2017年 5月23日(火)18時56分12秒
編集済
  照井さんのブログに,2回目の関ケ原の事を触れてありましたので,私は,1回目の関ケ原について書きます。具体的には,日本書紀にも詳しく書いていないので,不明なことが多くあります。関ケ原の名前の由来ですけど,これ,不破の関の横にあった原っぱだったので,関ケ原と言います。家康が本陣を置いた,桃配山ですけど,これ大海人皇子(のちの天武天皇)が,麾下の将兵の士気をあげるために,この山で桃を配ったので,桃配山と言うそうですけど,残念ながら,大海人皇子は,不破の関まで来ていません。桑名郡家(桑名にあった政府機関)で指揮を執り,不破の関に進出した軍の指揮官は,長男の高市皇子です。家康と三成の関ケ原で言ったら,家康軍の指揮を,秀忠が取ったような感じです。高市皇子も,秀忠と同じで,この時初陣でした。なぜ,初陣の高市皇子に大海人皇子が取らせたのかわかりません。日本書紀にも書いてありません。ただ,不破の関は,壬申の乱の翌年に出来たという説が強いので,壬申の乱の時には,不破の関はなかったようです。開戦の要因は,大海人側の重臣多品多が,不破道を閉鎖したことで始まりました。不破の関の戦いと言われていますけど,この時代,関所がなかったという説もありますので,不破の関の戦いが良いかどうかと言う事も言えますが,一応,不破の関の戦いと言いますので,ご了承ください。
不破の関がどこにあったか?と言う事は特定されていないようです。
壬申の乱は,3か所で大きな戦いがありました。不破の関と箸墓古墳,それに平城山です。激戦地は,箸墓古墳で,ここの部隊の指揮官は大伴吹負と言う人物です。ところが,ここで大海人軍が,負けかけます。それで,紀阿閉麻呂と言う人物が指揮する,美濃から来た軍勢が来着して,大伴吹負の軍がかろうじて勝ちます。その後,大津王朝軍を追って,平城山でもう一度打撃を与えます。これで,大津王朝軍は,ほぼ壊滅しました。
大海人皇子は,吉野の宮滝から伊賀,鈴鹿,桑名経由で進軍したようです。しかも,理由は分かりませんけど,行く先々で火をかけています。
尾張国守の小子部鉏鉤が,2万の軍勢を率いて,近江朝軍に付こうとしますが,これを説得した,大海人側に付かせたのが,尾張大隅と言う人物のようですが,日本書紀には,全く不思議なことに,尾張大隅の名前は一時半句も出て来ませんが,日本書紀の次の史書続日本紀に,尾張大隅が死んだことの記述があり,そこに尾張国守の小子部鉏鉤の事が書いてあります。尾張国守の小子部鉏鉤は,小早川秀秋のような人物ですけど,尾張国守の小子部鉏鉤は,大津王朝滅亡後,山の中で木に紐をかけ自殺します。良心に耐えかねたのかもしれません。
ただですね,不破の関の戦いで,近江朝軍は戦争らしい戦争をしていません。近江朝の主将は山部王と言う人物で,副将が蘇我果安と言う人物ですが,開戦前夜,果安が原因は,日本書紀にも書いてありませんけど,主将の山部王を斬首しました。黒岩重吾氏は,作戦方針を巡って,山部王と果安が喧嘩をして,激高した果安が,山部王を斬り殺したと小説で推理しています。それで,近江王朝軍は,これにより空中分解して,将兵が逃げ散りました。蘇我果安は,山部王を斬り殺した後,自殺したと日本書紀には書いてあります。結果的には,だから初陣の高市皇子でも勝てたわけですけど。(笑)まず,開戦地が分かりません。
その後,大海人皇子の舎人(小姓の様な役職です)物部男依と言う人物は,琵琶湖を敦賀の方に向かい,琵琶湖を一周して,近江宮のあった大津に向かいます。大海人皇子と高市皇子親子は,瀬田大橋に向かい,ここで激戦を繰り返します。それで,弘文天皇(大友皇子)は自殺して,天武天皇が即位します。
 

照井高之さん

 投稿者:太田 守人  投稿日:2017年 5月23日(火)08時49分44秒
  火星探査で,大きな疑問が出て来ました。運河と言う地形です。探査衛星で接近すると,そのような地形はない。それで,運河はなんだ?と言うのが,今の天文学会の疑問だそうです。色んな説がありますが,探査衛星飛ばしたおかげで,過去の説がひっくり返りましたけど,それで終わり。(笑)火星には,30億年前まで,確実に水があった。風紋跡と言う,海岸に波が寄せた跡ですけど,これが全球的にみられます。だから,30億年まえまでには海があったという結論ですけど,それで,グランドキャニオンのような水が岩を削った跡のようなものがあるそうです。それで,その跡の集合体が,運河と言われたものだと言う説が強いのですが,海や川がなくなってから,30億年たってますので,相当,谷が風化して分かりにくくなっているそうです。近くでも,分かりにくいのに,遠い地球から見てわかるか?と言われているそうです。最近は,火星は過去に生命が存在した可能性の高い星だが,現在は存在しないという分類のようです。  

金星

 投稿者:照井高之  投稿日:2017年 5月22日(月)22時42分4秒
  中学の理科の補助教材に、

 表面温度 -100~+400

などととんでもないことが書いてあるのがありまして、
理科の先生に「これはないんでないの?」と質問に行きました。
あの頃から太陽系限定で天文が好きでしたから(わら
もちろん素人向けの天文ガイドブックを持っているので教師も反論の余地なし。

適当なこと言ってごまかそうとしてましたけどね(わら


兄貴が中学時代に卓球やってて高校で引退したのでピンポン玉が無駄になっていましたが、
それを一個くすねて自作の「火星儀」を作成したのを教師に見せましたけど、
これにはどう反応していいかわからず苦笑されただけでした。

そりゃそうだ、その火星儀がどこまで正しいかなんてわからんから。
一応は天文の本に描いてあった火星の地図を参考にしたから、
間宮林蔵時代の北方地図くらいには正しかったと思うけど。

http://ameblo.jp/lucky-penguins904/

 

ちょいとほっこりする話

 投稿者:太田 守人  投稿日:2017年 5月22日(月)22時20分8秒
  陸自の駐屯地で,広報用に屋外展示をしていた,退役した60式106mm自走無反動砲の方針の中に,鳥が巣を作り,3羽の小鳥が砲身内で成長していたそうです。ちょいと,ほっこりする話ですから,良かったらご覧ください。

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170522-00000084-it_nlab-life
 

金星

 投稿者:太田 守人  投稿日:2017年 5月22日(月)17時10分5秒
  金星ですけど,この星見た目に綺麗ですが,内情はドロドロ。(笑)英語でヴィーナスと言いますけど,美の神と似ても似つかない星です。
まず,地表温度は510度,気圧は95気圧ですが,95気圧は,水深950mの深海に匹敵します。金星の自転方向は,唯一,太陽系の他の惑星と反対方向ですが,これには諸説がありますが,1時間で金星を全周する風の影響だという説が強いです。赤道面の直径は,地球と同じ位(12,103km)です。質量も地球と変わらないし,内部構造も地球と変わらないので,地球の双子星と言われています。公転周期は224.701日に対して,自転周期は243.0187日ですから,1年より,1日の方が長い奇妙な惑星です。雲は二酸化硫黄で,このため濃硫酸の雨が降りますけど,510度と言う高温ですので,濃硫酸の雨と言えども,地表に達する前に蒸発してしまうそうです。
金星観測をしたのは,アメリカよりソ連です。アメリカが,アポロで月に着陸したので,ソ連は金星観測に力を入れました。ただ,地表まで宇宙船を降ろすのが大変で,高温,高圧のために,ことごとく軟着陸に失敗して,11年位かけて,改良に改良を重ねて,地表に軟着陸できたそうです。  
 

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