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(無題)

 投稿者:照井高之  投稿日:2017年 9月20日(水)23時15分19秒
編集済
  旅行から帰ってしばらくデジカメの姿が見えず焦っていましたが先ほど発見。
いや、カメラそのものはあきらめがつくとしても、
旅行の時のデータは取り返しがつかんわけで。。

まだフィルムの時代の話ですが、コンビニが現像を引き受けていた頃、
配達員がお客のフィルムを紛失させてしまったことがあるのだそうです。
まずいことに海外での新婚旅行の写真だったとか。
コンビニではお客さんに全額負担+慰謝料でもう一度新婚旅行に行って頂いたのだとか。


写真は群馬県太田市の歴史資料館にある新田義貞像

http://ameblo.jp/lucky-penguins904/

 
 

上杉水軍

 投稿者:太田 守人  投稿日:2017年 9月20日(水)22時55分33秒
編集済
  上杉家は,戦国時代に有力な水軍を持っていました。謙信が整備したようですけど,これ越中に侵攻する時,親不知,子不知の難所を通らなければ,越中に行けません。ここは,海岸の背後に黒部連山があり,海岸を通る以外陸路で行けません。もし,別の道を通るなら,直江津から塩の道で,松本まで出て,安房峠,平湯経由富山に出る以外道がありません。それで,謙信は越中侵攻のために,水軍を整備しました。水軍なら,海を進めます。謙信が,京都に行った時も,春日山(多分,直江津港だと思います。)から船で,敦賀に出,今津から船で琵琶湖を横断して,京都に行ったようです。
これも個人的見解ですけど,謙信が晩年まで,加賀で軍事行動起こさなかったのは,水軍で軍隊を移動させたためだと思います。先に能登で軍事行動したのは,直江津からですと,船では能登のほうが絶対行きやすいわけで。加賀の場合,船だと能登半島を一周しないといけません。私が,謙信が輪島に行っていないと思うのは,謙信が滅ぼした松波城ですけど,これ珠洲市の恋路海岸の横にあります。輪島から,松波までは陸路で80km位です。輪島に上陸した謙信が,輪島から松波攻めたという伝説が,御陣乗太鼓の輪島市名舟地区にありますけど,謙信は,水軍で移動していますから,恋路海岸の上陸して,横の松波城を攻めたほうが合理的だと思います。しかも,昭和40年代まで,奥能登の道路事情は大変悪く,輪島から珠洲に車で出るには,一度,40km位離れた穴水(畠山の居城があったところです。)に出て,また穴水から,60km離れた珠洲に行きました。合計100kmです。輪島と珠洲の道路もありましたけど,車一台がやっとの未舗装道路でした。だから,国鉄が昭和40年代に珠洲線を引いたのですけど。だから,昭和になっても,輪島珠洲間の移動は,知り合いの漁船でした。つまり,陸路行くより,海路行ったほうが早いわけです。ですので,松波城を攻める,謙信が輪島に上陸して,松波城攻めるかと小一時間。(笑)
 

輔住(トータス砲)さん

 投稿者:太田 守人  投稿日:2017年 9月20日(水)15時41分31秒
編集済
  加賀100万石と言いますけど,60万石は越中です。謙信が,越中の地元勢力を一掃したので,信長の死後,越中は無住の地になります。そして,佐々が秀吉に負けた後,前田利家のバカの領地になりました。前田利常が,高岡に隠居したので,高岡周辺は金沢にあこがれ持っていますけど,富山周辺は,植民地にさえましたので,金沢に対して恨み持っています。今も,富山の金沢に対する敵意はすごいもので,私も若いころ3年間,仕事の都合で富山にいましたが,なんで富山に来たに始まり,富山から出ていけなんていわれました。この原因が,謙信が富山の豪族を全部滅ぼした結果,佐々と言う外様に占領されたという意識があるようです。まあ,神保はじめ,富山の土豪が,謙信に反抗したためですけど。特に,魚津市の海のほうは鈴木氏,山は椎名氏と言う豪族が領主でした。それで,鈴木と椎守の戦争がはじまり,鈴木は神保,椎名は謙信に後ろ盾を頼みます。それで,神保と鈴木が謙信に滅ぼされるのですけど,椎名も最後は謙信を裏切ります。謙信は,義の人ですから,椎名を族滅して,椎名の城を謙信の直属の城にします。その後,高岡にいた桃井氏も謙信に滅ぼされます。それで,越中の地元勢力が,謙信にほぼ全滅させられて,謙信が死に,佐々が越中の領主になるのですけど。だから,越中から地元勢力追い出したのは,謙信で,謙信のお陰で,越中は利家のバカの領地になったというのが富山人の考えのようです。だから,謙信に対しても,良い印象持っていないようです。能登は,謙信に恨みを持つ地域と恩に感じている地域が半々です。加賀は,謙信の存命中,関係のあったのは,手取川の合戦だけですから,謙信はえらいと言う考えが多いようです。越前は,謙信全く関係ないので,義貞一辺倒ですけど。(笑)それに,近攻遠交と言う言葉もありますし。
それに,長尾為景の父親の代から,長尾家は越中侵略を繰り返しています。越中は,加賀と違って,一向一揆はありましたけど,全土を征服できませんでした。しかも,戦国時代の越中は,神保が一番強いですけど,団栗の背比べ状態でした。神保と長尾が対立していました。為景ですけど,越中の一向宗に頼成山と言うところで撃たれたということになっていますが,上杉家ご年譜では,為景は1543年1月29日に死んだことになっているので,頼成山で戦死した,為景の父長尾能景と混同されたのだろうと言われています。上杉家年譜では,為景ですけど,晴景に家督を譲った後も,大御所みたい立場で,実権を晴景に渡さなかったそうです。
従来,謙信がよく越中に侵攻したのは,父親の為景が越中の頼成山で討たれた,弔い合戦説が強かったようですけど,最近は,弔い合戦説は否定されているようです。ただ,祖父の代から,越中の神保と長尾は対立していたようです。それで,椎名は神保と戦争する際に,謙信に後ろ盾を頼んだようです。謙信は,有力な水軍を持っていたので,能登によく進攻していますが,能登以上に侵攻したのが,越中です。ですので,富山県人の謙信嫌いは,それもあるのでないでしょうかね?
越中では,謙信は完全にショッカーです。輪島は,御陣乗太鼓の名舟地区は,完全に謙信はショッカーですけど,輪島では,ほかの地区には謙信の伝説すらない。名舟地区には,「謙信が上陸したけど,村人が鬼のような面付けて御陣乗太鼓鳴らしたら,謙信の野郎逃げていきやがった。名舟は,謙信より強い。どや~。」です。穴水は,畠山氏の居城ありましたので,町の広報誌にも,謙信公は神様と言う書き方ですから,仮面ライダーなわけで。(笑)七尾は,利家のバカのほうを自慢していて,謙信に関しては我関せずです。(笑)
 

越中でも人気あると思ってました…

 投稿者:輔住(トータス砲)  投稿日:2017年 9月20日(水)12時10分28秒
  越後の隣ですから越中でも謙信は人気あるとばかり…。  

もし

 投稿者:太田 守人  投稿日:2017年 9月20日(水)09時17分12秒
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  手取川の合戦が,夏だったら,謙信は信長を追撃したでしょう。それで,謙信が天下人になったか疑問ですけど,信長は,結構やばかったと思います。
謙信ですけど,越中では評判最悪です。越中の地生え勢力を一掃しましたから。その後,佐々が入ってくるのですけど,越中で一番大きかったのが,富山周辺にいた神保ですけど,この豪族は,信長のもとに逃げ込みましたが,その後行方不明になります。謙信が,越中の地元勢力を一掃したお陰で,前田のバカの領地になったわけですけどね。富山の人間は,生まれた時から金沢に敵意を持っています。それが謙信にも行ってるようで,謙信のバカが,神保を滅ぼさなければ,越中は,前田のバカの領土にならなかったという意識が強いようです。ですので,金沢の人間が一番バカにしているのが,富山の人間で,金沢には,富山人を「越中さ」と言う,蔑称で読んだりします。東京と埼玉見たいものかな?(笑)石川県でも,能登と加賀の評価は違います。能登は,評価高いわけでないですけど,越中みたいに低いわけでもない。可もなく不可もなくと言う感じです。有名な御陣乗太鼓は,輪島の名舟に上杉方が上陸し,七尾城攻略を目指しますけど,その時,上杉勢を怖がらすために,地元の人が打ち鳴らしたのが最初だそうですけど,私は,輪島に上杉が来たというのは伝説だと思います。謙信が,名舟以外来たところは,珠洲市松波です。ここにいた松波氏は,反謙信で謙信が,松波城を攻め滅ぼしたという話が伝わっていますが,輪島だと,穴水,七尾と反対方向です。私は,松波城を落として,そのまま七尾方面に南下したものと思っています。輪島周辺で,謙信伝説残っているのは,名舟だけだからです。ですので,名舟の御陣乗太鼓伝説は,江戸時代の軍記物を基に作られたと思っています。
 

手取川の合戦

 投稿者:太田 守人  投稿日:2017年 9月19日(火)22時01分34秒
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  信長と謙信の合戦ですけど,信長が大敗して,信長が謙信に恐怖感を抱いた合戦だと言われています。湊川の合戦とも言います。当時,手取川を湊川と言っていました。この合戦後,手取川と改名されたと言われています。この合戦ですけど,記録があまりなく,合戦の経緯がよくわかっていませんが,謙信が能登に侵攻して,七尾城を落としました。ところが,北陸方面司令官の柴田勝家は,七尾城落城を知らなくって,能登に向かって進軍を開始します。秀吉と勝家が大ゲンカしたのも,この少し前です。信長と勝家は,越前と加賀の国境の大聖寺城にいたようです。そこから,北上をしました。これに対して,七尾城を落とした,謙信は松任城にいたようです。ただ,信長と勝家は,謙信が松任城にいることを知らなかったようです。松任は,金沢から10km位福井県側に行ったところで,松任城は江戸時代に廃城になり,今は本丸の部分が,「おかりや公園」と言う公園になっています。天正5年9月23日(太陽暦の1577年11月3日)に,織田,上杉両軍が,川北町と言う,手取川の松任よりのところで激突しました。地元の記録では,川北町に源平島と言う集落がありますけど,その周辺で開戦したと伝わっていますが,私は,松任と源平島の中間くらいで源平島から1km位,松任寄りのところに,矢頃島と言う集落があります。矢頃は,矢の射程ですから,戦国時代,源平の合戦の様に矢合わせなんて優雅なことしたか知りませんけど,多分,このあたりで,手取川の合戦が始まったので,矢頃島と言う名前になったのだと思います。それで,織田軍は,10,000名くらいの戦死者を出し,四散しました。ところが,加賀最大の暴れ川湊川があります。それで,逃げる織田の兵は,急流に流されないように,手を取り合って渡河して,大聖寺城を目指して逃げました。このことから,湊川は,手取川と言われるようになったそうです。ただ,この時,雨が降った後ですので,湊川は増水していて,織田軍4万でしたが,27,000名が溺死したと地元では伝わっています。つまり,4万のうち,戦死者溺死者で,37,000名を織田側は失いました。3,000くらいしか残らなかったと伝わっています。地元の古記録では,織田方の溺死者で手取川の流れが止まり,大洪水を起こしたとも記されています。最も,地元の古記録は,大げさに書いたのではないか?と言う説もあります。真っ先に,京都に逃げたのが信長でした。どうも,信長は,部下を残して,敵前逃亡したようです。京都の町では,「上杉に逢うては織田も手取川 はねる謙信逃げるとぶ長(信長)」と言う落首が,京都市内のいたるところに書かれていたようです。まあ,信長も敵前逃亡していたわけで。(笑)でも,信長の運が強かったのは,11月3日ですから,北陸には,そろそろ初雪の時期です。ですので,謙信は,手取川を渡らずに,軍を春日山城に戻し,冬ごもりを始めました。それで,信長は助かったわけです。
信長は,謙信に恐怖しました。完敗ですから。それで,謙信の機嫌を取ろうと,謙信に今は国宝になっている洛中洛外図を送りました。ところが,謙信はこの贈り物を突き返してきて,「雪が解けたら,雌雄を決しよう。」と言う手紙を信長に送ってきました。恐怖した信長は,謙信に「謙信様と戦おうとは,この信長メは全く思っておりません。謙信様が,ご上洛の折は,この信長メは,単身,扇子一本にて春日山城までお迎えに上がり,京都までご案内いたします。信長メは,謙信様に逆らおうとは,露も思っておりませんので,どうか,信長メを下僕とお思いになり,いかようにもお使いくださいませ。」と言う手紙を出したそうです。ただ,謙信は,翌年だったか,翌々年だったかに,脳溢血で厠で倒れ,そのまま,あの世に行ったので,信長は助かったそうです。信長は,信玄以上に謙信を恐れていたようです。信玄は,物欲の塊ですから,物欲で信玄の鼻をつかみ振り回せばよい。しかし,謙信は,掴むところがない。信玄より,謙信が怖いと家来に言っていたようです。
 

ダンケルク

 投稿者:太田 守人  投稿日:2017年 9月19日(火)10時08分27秒
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  映画にもなりましたので,ご覧になった方いるかもしれませんが,世界三大撤退作戦は,ダンケルク,ガダルカナル,キスカです。この内,大失敗したのがダンケルクです。なんせ,イギリスは参加艦艇の半数を失い,国民に国王のジョージ5世とチャーチルがラジオで,ヨットでもボートでも何でもよいから,ダンケルクに行って,ダンケルクの英兵を救ってくれとお願いしたくらいです。原因は,ドイツ軍に暗号を解読されていたことです。このダンケルク撤退で,イギリスは多くの駆逐艦を失い,以後,船団護衛の駆逐艦にも事欠くありさまになります。ただ,英仏軍に有利に働いたのは,砂浜ですので,砂がクッション材になり,ドイツ空軍の爆弾が大量に不発弾が出て,英仏軍の戦死者が思ったより少なかったことと,原因はいまだの不明ですけど,ヒトラーがダンケルク直前で,ドイツ軍の進軍を全面停止したので,ダンケルクの英仏兵は,イギリスに逃げれましたけど,普通なら,英仏軍は,ダンケルクで玉砕でした。ですので,ダンケルク撤退作戦は,僥倖で成功した作戦で,決して評価される撤退作戦ではありません。
一番うまくいったのが,日本がやったキスカ撤退作戦で,アメリカは10倍の艦艇で,キスカ島を包囲していましたが,日本側は無傷で,キスカ等守備隊5,200名を日本に連れ帰ることができました。しかも,この撤退作戦の1か月後,米加軍がキスカ島に上陸しますが,日本軍がいないことを知らなかったので,同士討ちで25名の戦死者を出したというおまけまでつきました。この作戦を指揮したのは,第1水雷戦隊の木村昌福(きむらまさとみ)と言う海軍少将ですけど,最初のとき,キスカ沖40kmで霧が晴れます。全力で突っ走れば,1時間以内でキスカに付けますので,参謀や各艦長は「突っ込みましょう。」と言いますが,木村は「今回の仕事は,キスカ島守備隊を無事に日本に連れ帰ることで,敵艦隊との戦闘が目的ではない。帰ろう。帰ればまた来れる。」と言って,艦隊をUターンさせたことです。木村は,帰ってから,海軍部内で腰抜け,卑怯者と言われますけど,我関せずで,毎日,旗艦の軽巡阿武隈から,釣り糸垂れて釣りをしていて,獲物があると(タラが多かったようです。)自ら水炊き作って,部下に食わせていたそうです。それで,2回目の作戦になりますけど,この作戦のとき,日本艦隊がキスカ島沖20km位のところに迫ったとき,アメリカ艦隊のレーダーにゴーストが映り,その目標に対して,アメリカ艦隊が2時間にわたり艦砲射撃を加えて,弾薬庫がすっからかんになり,全艦引き上げたときに,木村の指揮する艦隊が,キスカ島に滑り込み,55分で5,200名全員を救出して引き上げました。だから,アメリカ艦隊が,弾薬の補給を終えて,キスカ島沖に戻ったときは,キスカ島はすっからかんだったわけです。今でも,アメリカは,キスカ島撤収作戦を褒めています。完全無欠の作戦だったっと言って。ガダルカナルもそうで,アメリカ軍は,日本軍の撤退を知りませんでした。ですので,ガダルカナル撤退作戦も,3回行われ,各40隻の駆逐艦が参加しましたが,沈没1隻,損傷1隻のウソみたい軽い損害で,12,000名の守備隊員の撤収に成功します。まあ,これはアメリカ軍が,日本軍が撤退すると思わずに,駆逐艦でガダルカナルの兵力を増強していると思っていたのも一因ですけど。日本軍は,撤退作戦だけは,連戦連勝の負け知らずでした。これは,撤退作戦に関して,敵に知られたらまずいと言うので,無線を全く使わなかったことが連戦連勝の原因と言われています。命令書は,参謀が潜水艦で忍び込み,現地部隊に渡したので,アメリカ軍も暗号解読できなかったわけで。(笑)
 

輔住(トータス砲) さん

 投稿者:太田 守人  投稿日:2017年 9月19日(火)08時31分53秒
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  将来プレミアがついて,2,000円札1万円くらいになるかも。(笑)
銀行で,両替するとき2,000円札と言ったら出してくれるそうです。しかし,世界最初の紙幣は,クビライが発行したそうですけど,最初は通貨不信で,ハイパーインフレになったそうです。そこで,クビライは,その紙幣を回収して,「この券を持ってきたら,いつでも額面通りの金銀と交換します。」と書いて発行したら,紙幣はお金として流通するようになったそうです。反対に,紙のほうが軽いので,持ち運びに便利で,行商人等には,評判が良かったそうです。このように,金銀といつでも交換しますよ。と言う紙幣を,兌換券と言いますけど,世界のどこの国の紙幣も,兌換券から始まり,信用を作り,今の金銀と交換できない紙幣不換券に移行するわけですけど,日本も,明治時代,最初に出した紙幣は,兌換券で「いつでも,日銀で額面通りの金銀と交換します。」と書いてあったそうです。紙幣を信用してもらうのに,日本は20年位かかったようです。クビライは原稿を起こした人物ですので,日本での評判最悪ですけど,中国歴代皇帝では,名君の部類にランクされています。北京が首都になったのも,クビライの都市計画のお陰と言われています。まあ,クビライは,中国版吉良上野介?(笑)
中国人は,モンゴル人大嫌いな人多いみたいですけど,クビライは評価している人多いようです。現代中国の基礎を,良いところも悪いところも作ったのは,クビライと言う評価もあります。中華料理店で,燕京と言う屋号のところありますけど,これが北京でして,最初は,春秋戦国時代の戦国七雄の一つ燕の都でした。日本では,京都を京洛と言う雅号で読んだりしますが,中国で北京の雅号が燕京です。でも,北京はクビライが都にするまで,地方政権の都だったことはありますけど,統一政権の都になったのは,クビライが初めてです。クビライが天下取らなければ,今の中華人民共和国の首都は,南京だったと言われています。旧の長安,今の西安は,唐滅亡時に徹底的に破壊されて,それこそ,ぺんぺん草も生えない状態になりました。今の西安は,後年,長安の上に建てられた都市です。長安の末路と鎌倉の末路は似ています。後年,観光地になるまで,超ド田舎でした。それで,長安に都をおく政権がなくなりました。
 

二千円札ねぇ…

 投稿者:輔住(トータス砲)  投稿日:2017年 9月19日(火)06時54分47秒
  〉二千円札

流通度や自販機への対応費などを考えると無駄だったしか思えないですね。(笑)
昔「人生ゲーム」などでは二千$や二万$の札は結構便利と思いましたが。(笑2)
 

布哇の住人さん

 投稿者:太田 守人  投稿日:2017年 9月18日(月)23時17分59秒
編集済
  >$20札   アンドリュー・ジャクソン・・・・・・これを1番使う国です。

日本で言ったら,2,000円札くらいですかね?この前,久しぶりに見てタンス預金。私が死んだら,娘高く売るかもです。(笑)
でも,いくら気に食わなくても,中央銀行ぶっつぶして,新たに作るなんざ無茶苦茶です。(笑)
ユリシーズ・グラントは,南北戦争のときの北軍の将軍ですか?この前,南軍のリー将軍の銅像倒されそうになったそうですけど。リー将軍は,別に奴隷制度保持者でなく,頼まれて南軍の総司令官になったそうです。南軍の軍人で,自分から南軍に行った人少なくって,大概,頼まれて行ったそうです。
咸臨丸に乗っていった,ブルク大尉もそうで,この人物,アメリカ海軍のブルク砲と言う大砲を作りました。大砲の重量を軽くするため,砲身を均一にするのではなく,砲尾の厚さはそのままにして,方向と言う先の部分は,火薬の爆発力の影響ないので,薄くし世界で最初にライフルを切った大砲だと言われています。アメリカ海軍で,一時期,ブルク砲は正式の大砲になりましたけど,結局,製作費が高くつくのと手間がかかるのと,前から玉込めする前装砲だったので,すぐ廃れました。ただ,ブルク砲がなければ,後ろから弾を込め,方針にライフルを切った,アームストロング砲の登場は,もっと遅れただろうと言われています。ブルク砲は,それだけ画期的な大砲でした。司馬バカは,アームストロング砲と言う小説で,ブルク砲の解説しかしていません。トラック4台分の史料の表紙だけしか読んでないと思うわけです。(笑)このブルク大尉も,南の出身者だったので,頼まれて南軍の海軍に所属し,兵器開発の責任者になります。
南軍の装甲艦メリマックと北軍の装甲艦モニターの海戦のハンプトンローズ沖海戦は,世界最初の装甲艦同士の海戦として有名ですけど,このメリマックが装備した大砲が,ブルク砲でした。ブルク大尉は,南軍の海軍士官ですが,アメリカの駆逐艦やフリゲートの名前になっていますので,アメリカ海軍としては,結構有名な人物のようです。咸臨丸の航海では,ブルク大尉,木村摂津守,福沢諭吉の3名が,勝海舟を徹底的にくさしています。とくに,福沢諭吉は,この時の勝海舟の態度が腹に据えかねて,生涯,勝海舟と交わりを絶ったそうです。勝海舟は,日本海軍最初の海軍大臣(当時は,海軍卿と言いました。)になりますが,勝海舟を海軍大臣から首にするのに,一番走り回ったのが,福沢諭吉です。福沢諭吉は,日記に「幕臣でなければ,艦長になれなかった人物で,このような人物こそ排斥されなければ,日本の明日はない。」とまで書いています。
ブルク大尉が,咸臨丸乗員で,一番買っていたのが,通訳のジョン万次郎でした。ジョン万次郎は,捕鯨船の副船長で,2回世界一周をやっています,2回目は,直前に船長が精神分裂病になり,船長の補充ができなかったので,ジョン万次郎が,捕鯨船の指揮を取り,世界一周をしました。ですので,ブルク大尉は,最初,ジョン万次郎を全く無視しましたが,そのうち,航海術と機関術の造詣の深さに舌を巻きます。特に,機関術の知識は,ブルク大尉以上で,反対に,ブルク大尉のほうが,ジョン万次郎に教えられることが多かったと日記に書いています。
咸臨丸が,日本に帰国するとき,アメリカ海軍は単独では無理だと思い,アメリカ海軍軍人を咸臨丸の乗せ,アメリカの軍艦を咸臨丸の護衛に付けようとしました。ところが,ブルク大尉が,海軍省に「ジョン万次郎がいれば,咸臨丸は明日から,世界一周の航海に出ても,十分,その任に堪える。」と太鼓判を押したので,咸臨丸は,日本人だけで帰国することになりました。ジョン万次郎が,咸臨丸に乗っていなかったら,咸臨丸は,どこかで行方不明になって,ミステリー物語になっていたかもしれません。(笑)
 

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